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2012. 01. 31  
藤本入道は刀の業界は死んでいると私にいいましたが
その意味は南北朝あたりを頂点に時代が下がる程質が
落ちている。これをあつかう業界も造っている刀匠も
もはやかっての作品以下にあまんじている。
人間は出来るかどうかは別にして常により良いものより
優れたものを目指すところにドラマが在り意味が在る。
このことを失った世界は死んでいる。
彼がいいたかったことを私はこのように理解してる。
このことを焼き物の業界にあてはめてみたとき。かの
魯山人が云ったように焼き物は桃山時代以後堕落してい
る。との指摘は謙虚に受け止めないわけにいかない
桃山時代と云えば信長、秀吉、利休、織部、光悦、等
の人物がすぐ浮かぶ。彼らの生き様にはロマンがあったし
ドラマが在る。戦国時代の終焉に生きた彼らは今生きる私                 達に素晴らしいものを残している。

優れた天目が造られた時代はほんのわずかな辰である。
名さえ残っていない。
また日本で平安から鎌倉時代に名刀が出来ているがこの
ことを想うと辰があり天があり人がある。私はこう想えて
ならない。海の干満も時が在り時代の盛衰にもときがある
そして今という辰にわたしはいやおうなしに立たされててい
る。
素晴らしい先人達が残した美の世界によってわたしはゆめ
を見させてもらった。
自分が生きているなかで板谷波山、加藤唐九郎といった名工                も排出している。
わたしのたっている世界は死んでいない。生きている。
未来が在る。このことを誇りに思っている。                           








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2012. 01. 30  
現在、国宝。重要文化財等に指定されている建窯の天目
茶碗に曜変、油滴、のぎ目と呼ばれている三種類があります。
いずれも南宋末あたりA,D1125年頃に造られているようです
最も優れていると云われている作品は全て我が国にあるよう
です。
面白いのは名称が異なるだけで全て材料となる釉薬は同じです
天目の名称で呼ばれている作品は他にもありますがここではそ
のことには触れません。
建盞の三点に的をしぼってお話ししたいとおもいます。

まず呼び名ですが本家の中国にさえ無いのが曜変ですからこれ
でよいとして、油滴は中国では滴珠と呼ばれています。
北京の故宮美術館長呂斉民先生は建盞の優品は全て日本にあり
ますのでこれは日本と同じ天目とよんでいます。また滴珠も油
滴で通用しますと云われましたが私個人的には滴珠の名が好き
です。この油の名称を付けた当時これが高価だったためかな。
日本名のぎめ、と呼ばれる兔毫、これも中国の呼び方が好きで
す。
さて次に陶土ですが建窯で使われていた土は鉄分がかなり含ま
れています。中国精華大学長の張先生ご夫妻と対談したときに
二つの興味深い話題で盛り上がったのですがその一つに陶土の
ことをはなされ建盞はあの土でなければ出来ない。といわれま
した。

2012. 01. 28  
いま家にはテレビも新聞もない。さていよいよ寝ようかと
思ったが祈りの中で波動の事を書いたことがちょっと気
になっていらんようまですが書き足します「ようま」は
岡山べんかな-
わたくし科学そのものを否定していません。例えば
地質学者であられた内藤先生の「古陶磁の科学」なんか
精読しています。この本の中で鉄の話の項目に
スイスの科学者が云っていることが書かれていて興味が
あります「地球に10トンしか存在しない物質だがこれが
十万分の一グラム存在することにより鉄は変化する」とい
った意味のことが書かれています。あるいは曜変を造る
物質かもし知れない.....と。
未だ人間が解明出来ていない物質が95パ-セント存在して
いるとも云われています。
解っているとか常識とかいってみても案外あてにならない
ものだとおもっています。   数十年もまえになりますが
神戸女子大の当時助教授が朝日新聞に天目は傾けて焼いた
と述べていましたがこれは学者馬鹿の典型、実際これを焼いている
現場を無視した机上の空論。ちゃんとまっすぐにして焼かれています
茶碗の見込みにたまった釉がかたむいていることの指摘ですが
宋時代の建盞は電気窯で焼いてません。火前と後ろの温度差で出来る
現象です。いらんようまでしたはい。寝ます











2012. 01. 27  
わたしはここで自分史を語るつもりはない。
ただ振り返って想うことは仕事もそうだけど生き様も不器用で
あったとおもう。その時々なぜもっと柔軟に物事に対応出来な
かったのかな-。と今にして想う。伝統工芸の草創期
備前焼の伊勢
崎満さんに会員になるよう薦められた。
また日展には萩焼の重鎮吉賀大眉先生から温情を戴いた。
どちらであれこの業界で生きていく上で大事なことであったろう。
「何が不満で大利根暮らし」どうにもへその曲がった性根とは
今想うとおかしくもある。ゆめはゆめ。こっちに置いといて生き
れば良かったものを。それが出来なかった変わり者の私であったが
世の中面白い物でそんなわたしの作品を好いて下さる人もいる。
生き様はそんなわけですが焼きもんのほうは型枠からはみ出ている
伊賀、萩、青磁、志の、李朝の壷井戸茶碗等等。オブゼも大好きで
ある。天目オンリ-ではない。
いずれこれらのこともおいおい話しますが.....。
いよいよ本丸曜変天目とは何か。を話したいと想います。

ここまでわりとハイペ-スで書いてきました。実はいま
窯場の周り一mを超える雪に埋もれていまして毎日雪かき
におわれ仕事にならないでいます。そんなわけでp.cの前に
居ることが多くて。はい






2012. 01. 27  
天目とは何か。これについての文献は中国、台湾、日本等あるいは
イギリス人のプラマ-博士、名古屋では山崎博士の研究資料。加えて
これを所有しているヨ‐ロッパ、アメリカ、日本の美術館の研究資料
等で述べている。ものを機会があればお読み戴くとおおよその理解は
得られます。
わたしは学者でも研究者、まして評論家でもない。一介の焼きもんや
でしかない。此れに私が踏み込んであれこれ云う必要はないと想いま
す。前にも云った様に......。
今ひとつ加えて云えばここに述べていることは一介の焼きもん屋が勝
手にゆめを描いたに過ぎません。
自分では精一杯大きいと想い大げさでなく命を燃やして今日まで旅を
してきました。
此の旅は苦難と苦渋に満ちた半世紀の旅でした。
あるときは自分ごときがとおもい
あるときは誤解を招き
あるときは悪夢にうなされ
無論経済的にはいつもすってんてんの財布でした。
もうやめよう。窯を炊くたびに此れが最後の窯だな
そのような状況の日々ににあって不思議な出来事が重なりました
人との出逢い材料との出逢い。活かされている。何者かに
それとやがて自分はいま生かされているのはこれを成し遂げるため
いやこれを未来に残すためなのだと最近想う様になりました。特に
一昨年の十月救急車で病院に運ばれて以後.........。



2012. 01. 26  
私が所有する鋼は曜変の色を持っている。これを釉薬にして
みても材料が持っている色が現れない。おもいあまって入道
に聞くと「すでに出来ている」という。彼の眼で視れば
そうかもしれない。そうではなく誰の眼にも解るのでないと
意味が無い「雰囲気よ炎の」そう言い残して数年後不帰の人
となった。わたしはこの雰囲気を掴むのに十数年かかった。
わたしはデ-タ-とか分析とかは信用しない。
電気窯とかガス窯であれば多少は役に立つ。自然相手の松割り
木で焼く窯であればなんの役にも立たない。まして釉に使う
鋼そのものが自然のもので鉄いがいのものを人工的に混ぜては
いない。
入道のいう雰囲気をつかむ以外に方法が無い。これを解ると云
うことは自分が自然の前に徹底的に謙虚にさせられることでも
ある。
空海の云う大日如来が地上の生き物に送る波動を感じ、これと
呼応する。祈りしかない。わたしの使う鋼はあと35パ-セントに
何があるのか知らない。その必要もない。美しい作品が
出来ればそれで良いと想っている。




2012. 01. 26  
前に上田社長の所で書きましたが数点出来たのみで材料が無く
なりました。
万策尽きて数年後、入道から連絡がありました。「弥生の土器
と鋼が出土した見に来んか」であった。以前彼は日本で刃物の
生産を弥生前期頃と言っていたが...。なんとそれを証明すかの
ように土器と鋼それに炉壁等が出ていた。このときの鋼は今も
所有している。
このことがあってしばらくして、筑波大学の高野教授が我が家に
こられた。彼は古代の学問の権威とか。「古代の文化を見下げて
物を云う人間が多い中であんたはその逆の説を云われているが」
人間退化している。あれですか「そう実は私もその説賛成でして」
ま、あれこれ話されたあと例の鋼を見せた「こんなの初めてです
大学で分析したいが」お断りします。ま私のゆめを実現させる方が
先でして。「あなたは古代と現代、鋼が変化していると云われるが
元素は変化しない」しかし此れを取り巻く環境が変化しています
この鋼は元素65パ-セントです。「なるほどこの色はあなたの
求める曜変の色が観えますね」そのとうりです。
この材料で数点の作品が出来たところで上田さんに電話した。
「父は昨年他界しましたが」であった。


2012. 01. 25  
和鋼の素材は砂鉄が使われます。これを炉で溶かして不純物を
除き鋼を得ます。この作業を荒おろしと聞きました。
F.Eは65パ-セント位、海水を自然乾燥させて塩が出来ますが
これも塩化ナトリウムの量は同じ位と聞いています。
私が天目の釉に使う鋼はこの荒おろしの物です。
備前長船、備中青江、共に天下の名刀の産地です。
また、その原料である砂鉄は中国山地です。美作,伯耆あたり
のものは吉井河、旭河を下り備前に送られ、真庭、阿哲吉備
のものは高梁河を下り備中に送られています。
備前刀と備中青江の地鉄の色は異なります。これは水だと想い
ます。備前は軟水備中は硬水、石灰岩のある環境にある砂鉄
青みを帯びた鉄の色の正体を私なりにこのように思っていますが。
わたしがこの青江の鉄に求めた色は紫でした。この色を出したかった
わけです。
いつまでくどくど鉄の話やっとるんじゃお前焼きもんやじゃろうが
といった文句が聞こえてきそうですがもう少しだけご辛抱ください

青江の原料である砂鉄と想われるものを採集して実験を重ねたが
得るものはなかった。ところが入道からもらった鋼で素晴らしい
色が出た。もはや迷いは無い。ところが.........。





2012. 01. 24  
飛鳥時代の鋼と云われてもピントこない。器量の悪いやつだ
「こっちに現在日本の大方の鍛冶屋が使っている日刀保のやつ
を用意しておいた」クレ-タ-にはきれいな玉虫色がある。
「割って中の色を比べてみれば解る」なんとすごい色が観える。
この違いは何。「いろいろあってな。一つは炭。一つは環境、
一つは温度。湿度なんかもある。これを纏めれば大量生産。
質から量求めるものの違いといえる」
であれば今でも古名刀再現は可能では。
「うんにゃ出来ん」なぜ「環境が変化している。としかいいうよう
がない。それとよしんばわしが造ったとしても売れん。愛好家は
そんなもんに眼がいってない。お絵描きの波紋で満足している」
なんだかそのあたりいまはやりの曜変もどきと似ている。
戴いた鋼は素晴らしい色を内に秘めている。しかし今現代の
鋼には其れが無い。おらの仮説はあたっていた。
国宝の刀二三本ツブさんでも出来る。 








2012. 01. 24  
ここで再度刀匠藤本入道に登場願う。
そも古と新、室町時代以前と以後何があったのか知りたい
「わしも知らんと言えばみもふたもないか」そう。
入道は古青江、特に正恒のスグ刃の再現に努力している。
「この前鍛えたの観てくれ」
なんとみごとな地鉄ではないですか。
「これ見事に落選」なぜ「まあ研ぎが田舎と云うこともある
まんががへたもある」まんが「刃紋のこと」すぐ刃はだめとか
「ふふふ死んだ世界よ地鉄は評価の対象にならない」
だからいいたくないわけか。「あんたは別。何でも云う」
古青江の材料手に入れる以外におらのゆめは水の泡。
「はらいせにこいつで竹切ってみないか。竹薮に行こう」
切った3本、「まだたらん」切った切った息キレるほど。
見事な切れ味。改めて刀身を視たが傷ひとつない。
それから数ヶ月後、連絡もらって手に入れた鋼は飛鳥時代
のものであった








2012. 01. 23  
年末から正月にかけて三メ-トルの松の丸太が埋もれている
一抱えくらいのが15本。
これを掘り起こすのにまる二日かかった。
昨日あたりこれをチエンソ-で50センチに切りたい
23日あたりから冬将軍が来るとのことで。
このまままた雪に埋もれると3月終わり頃まで手がつけ
られない。
どうなるんかな-とはいえど-にもなりません
前の日に倉敷から太田が来た。きのうは昼前から次々
と増えて小6から80才まで計10名がんばって
全部屋根の下に運びました。おつかれさまでした
2012. 01. 22  
焼き物に鉄は欠くことの出来ない金属です。
長石、石灰釉を基礎釉にしてこれに鉄を粉末にして加える。
青磁、飴色、黒色等その量のさじ加減で変化する。
酸化炎、還元炎等炎を加減することで、また焼く温度でも
異なる。粘土に含まれている場合もその量の多少で変わる
さて中国の福建省の建窯で造られた曜変天目、油滴天目、
兔毫天目等の優品が造られたのは南宋末あたりと云われて
います。
日本の年号では平安から鎌倉あたりになります。
わたしが天目の研究にのめりこんでいくなかではたして鉄
だけで良いのかという疑問がわいてきました。
ほかの金属もくわえてみたらどうかでした。
しかし、あの名品が造られた時代にはたしてそのような
ことをしただろうか。自問自答してみても解決の糸口は
みつからない。
そんななかで日本刀にひかれていくようになり、やがて
藤本入道に出逢い糸口が掴めた。奇しくも日本刀の名品が
日本で出来たのと天目の優品が出来た時代が同じ頃だと知る。
このことにわたしは注目しました。これにはなにかある。
砂鉄以外にも和鋼の材料を集めて試すなかで古刀の材料への
関心が次第にたかまっていきました。

2012. 01. 21  
天目に関しての文献資料はかなりある。
ごく最近はあまり読んでいないが...。
それで云うのも口幅ったいかもしれないが、天目に
ついてはいろんな分野の人達が語っている。しかし、
天目を語っている人は知らない。
それはやった者でないと云えないのかもしれない。
わたしはここで言おうとすることは自分がこれまで
積み上げて来たことを語ることになる。私が求めた
美の世界とは何かです。赤裸々にかたりたいと思います
なぜいまそういった気分になったのかといえば二十世紀
から二十一世紀初めあたりにかけて堕落していく権威。

日本を代表しているかどうか知りませんがまあ権威と云えば
権威、NHK、三越。その取り巻きの行為。あきれて物も云い
たくない。まあ触らぬ神にたたりなし、ほっとけさまよ。
からすのかっておらし-らない。を決め込んでいた。
ところがどうもそうはいかないようになってきた。
ある人間から「おまえが云わんで誰が云う」ときた。
そうはいってもむしろ旗かついで敵陣にのりこむ勇気も
金もおらにない。そこはそれやんわりといくしかない。
無い頭しぼってかんがえたのがここに書くことで
ごかんべん願おうという寸法でして......。はい
ありがたいことに年末にたちあげたこのブログかなりの人が
見てくださっている。
このことはうれしい。ありがたいことです。
ご意見も遠慮なく御寄せくださいおまちしています。



2012. 01. 19  
今から50年前に天目を自分のゆめと決めた。そのゆめはいまも
進行形である。
天目についてはそれなりにあれこれ語っているが、わたしは
辰がくれば天目を語らなければならないだろうな。この場で紹介
した3名以外にも数名わたしのゆめに付き合って下さっている。
その人達との出逢いはうれしい。
しかしながら別れはつらい。
私が持ったゆめは彼らのゆめでもあった。そのゆめはすでに形
になっている。わたしは物作りである。物が語る。言葉はいらない
のかもしれない。そうとも云えるが一方でこのじいさん次何を
やらかすかとわくわくしている人達も居る。
彼らはわたしの作品に触れて次の時代の天目を夢みている。
ゆめは果てしない。
曜変天目の美の世界は小手先の技術をひけらかして出来るような
おそまつなものではない。
深淵であり無限の可能性を秘めています。
時が今なのかどうかは解りません。縁あって私の文を読んで
戴いているみなさんにお話ししたいとおもいます。
ただ御断りしておきますがいささかへりくつも入りますが
御付き合い戴けるとありがたいです









2012. 01. 17  
わたしが焼き物に興味をもって倉敷で、丹波で師について学
んだことは技術であった。これを活かしてすんなり職人として
生きればなんの問題もなかった。
にもかかわらずなぜかそうしなかった。その生き方にゆめが
描けなかった。ここにおのれのばかさがあり、傲慢さもあった
自分がのたくることによって多くの人に迷惑をかけた、
そんなとき曜変天目茶碗に出逢った。
此れに関して当時何の知識も無かった。もっといえばやきもの
無知であった。そんな私にこの作品は強烈な印象を与えた。
自分の手で造ってみたい。この想いは次第にふくらむ。
が、其れと同じように自分ごときが出来るわけがない。との
想いもふくらむ。
「じぶんが棺桶に入るまでに一点でいい出来たら本望」
ここに落ち着いた、ゆめとしよう。ゆめは大きい方が良い
だろう。
そうなるとおれは後何年生きれるか無性に気になって来た
あるとき「棺桶に向かうのでなく逆の発想でいきよう」と。
自分の棺桶を打つ釘の音をききながら面白い人生だったと
そのような死に様をするための人生。棺桶のふちにてをのせて
あごのせて今のじぶんを眺めている。












2012. 01. 15  
上田社長との出逢いからすでに20年の年月が過ぎ去った。
自分の不手際で戴いた名刺も無くしてお名前も思い出せないでいる。
天目をゆめとしてこれに挑戦した半世紀のなかで
藤本、長江、上田の三人との出逢いを抜きには語れない。
ばけものに取り付かれてその苦しみから逃れよう、もうやめよう
とする私をはげましてくださったかけがえのない方々といえる。

今少し上田さんに触れたい。銀座の画廊での会話で
唐九郎先生とご自分のことを話された内容を紹介します。
わたしは先生の弟子でした。が、あるとき積んでいた
割り木が崩れて足の上に落ち、片足が不自由になりました。
先生はお前は焼き物造りはあきらめい
そのかわりわしの作品はお前にまかすと。
以後先生の作品の値段にかかわってきました。ただ、
先生は負けず嫌いでいつも人より高い値段でないと
ご機嫌が悪かった。

たしかその頃唐九郎しの茶碗一千万円の値がついていた。                 人間国宝を遥かに見下す値段であった。
その値段を付けた彼が私の茶碗に自分一人では値段が
付けられないといわれた。以来、いまだに私の天目ネなし草                でさまよっている。







2012. 01. 14  
彼は茶碗を受け取りこれを目の前に置いて片手を伸ばした。
すると一条の光が茶碗に注がれた。見事な仕掛けである。
茶碗を手にしてなお眺めながら「この間天目の展示が銀座で
ありました。ガラスケ-スに入れて仰々しいものでした」
それはある雑誌で視ました。たしか評論家の森さんが論評
されていましたね。「この作品は美しい。日本人の手で造った
天目でこれほど美しい作品は観たことがありません」
評価していただけますか。「これと同じレベルの作品何点
ありますか」いまのところ一点しか...。
「そうですか一点では値が付けられません」近いうちにお持ち
出来ると思います「そのときにはわたしが複数の目利きを集め
て値段決めましょう私一人では自信がありません」
このあと話題は亡くなられた唐九郎先生の話をされた。
かれこれ一時間位、彼は茶碗を抱いたままであった。今一度
「これはうつくしいですね-」と云われて私の手元に返された
おいとまします。と立ち上がると荷物中を見て
「それゆずって戴けませんか」であった。油滴のぐいのみです
に点ありますが「一点五万でいかがでしょう」有難う御座います
このときの天目は藤本入道にもらった飛鳥時代の鋼であった。
一椀を得るまでに材料は使い果たしていた。
約束を果たせないまま数年たって電話したが彼はもはや
この世の人ではなかった。一期一会、たった一度の出逢いであった。




2012. 01. 13  
とはいえそのことをぐたぐた云うこともあるまい。
たしかヤマモトカンサイさんがラジオの対談で
「多くの人がゆめを持っているがそれを成し遂げる人は
ごく少ない。ゆめは実現させてこそ意味がある。ゆめは
大きいほど面白い。ただ、成し遂げるには「気が狂うほど
そのことを想い努力することが大切だ」と。
辰は昭和から平成となり、しばらくしてわたしは自分のゆめ
に描いた曜変天目を一椀と油滴、兔毫など数点を窯出しした。
以後数ヶ月の間これを誰に観てもらうかであった。「日本一」
の目利きは誰か。探すうちにこのひとしかないと思える人物
と出逢う。そのかたは東京銀座で画廊を経営しておられた上田
さんであった。
突然の訪問である。逢ってもらえるかどうか一抹の不安がよぎる
がかれは快くあってくださった。
案内された部屋は地下である。部屋に通されて「お茶をどうぞ
そのお茶にはこれがあいます」みると松の実であった。
「いまあちらの国で粉引きの制作やってましてね。ところで
あなたは岡山からと聞きましたが備前ですか」いえ。観て戴きたい
のはこれでして。「拝見しましょう」
わたしはこの部屋に案内されてから気になっていたことがあった。
このうすくらい中では色が解らない。しぶしぶ作品を渡した。

2012. 01. 11  
倉敷の窯元故小河原虎吉師に弟子入りを願い出たのは
中学卒業した日であった。
特別やきもんが好きであったわけではない。ただ窯の炎に包まれて
ゆらめく器が黄金色に輝いている様に何か心引かれるものがあった。
いまひとつ「さや」「ごう」と云われる器を入れて焼く道具の色に
魅せられていた。何度も焼かれることで美しい景色が出来る。
20代初め頃までの自分の生き様を今思うと若さと馬鹿さそのもので
とりたててこの場で云えるものはない。
ただやきもんにかぎらず展覧会は随分観に行った。しかし、
次第に何を観ても感動出来ない。失恋も加わりますます
おちこんでいった。
そんなある日「東洋陶磁展」を観にいった。
中国。朝鮮、日本の名品展であった。ここで天目に出逢った。
うつくしい、体中が感動で満たされた。光悦も良かった。
ものすごい人波におされあとは立ち止まることのないまま外に
押し出された。運命の出逢いであった。
やがてこの出逢いが自分のゆめになるのだが。またこのことがあって
以来のたうちまわるほどの苦しみが待ち構えていようとは。
2012. 01. 10  
DSCF0053.jpg
2012. 01. 10  
かまたき
年末30日に火を入れ31日夜明け頃の様子
毎年年の瀬の窯焚き新年の窯だし。
周りは70センチ位ゆきがあります。
ところで何で「窯焚き」木はなぜ燃える。穴の周り
何で黒い。いやいやおあとがよろしいようで。
2012. 01. 10  
DSCF0032.jpg
2012年の夜明け、
昨年は地震、津波、火山と地球の異変が次々と起こりました
かけがえのない地球。人はここに活かされている。
新しい年。この一年が良い年でありますように。

2012. 01. 09  
その頃を振り返って正直に云えば強がりであった。
証拠品と彼がいう小物、かなりの数である。一瞥すれば
当時、名の知られた陶芸家のものであった。「こいつらに
は何一ついってないがあんたには何でも教える」なぜそう
云われるのか解らなかった。
かれは天目を熱く語り、私はもっぱら聞き役であった。
自分の想い等何もはさむ余地はなかった。にもかかわらず
わたしにはとても親切であたたかくて好意的であった。
数年後岡山の明日香画廊の個展に来て下さった。「わしな
家内と結婚して以来一度も一緒に旅行してないんや。
今回が初めてなんだ。あんたは天目以外にもあれこれ
やるんやなあ」そういいながら随分の点数買って戴いた。
「人の作品買うの今日が初めてや」そうもいわれた。
以後電話での話は数回したが逢う機会もないまま数年の
年月が流れたある日
「わしも年とったわ孫がかわゆうてな-。
天目はあんたにまかすわええな、まかしたで」それから
数年後、電話すると奥様が出られ主人は昨年亡くなった
とのこと。熱き人であり私が何もいわない心の本質を見抜いて
おられた「曜変はな城から城へ移った。ドブ板わたってないんや」
合掌


2012. 01. 07  
次の日瀬戸に伺った。
早速天目を熱く話された。「この間三越本店で個展やって
みんな売れてな。今手持ちは一点だけしかないがまあ観てくれ」
拝見します。黙って眺めている私に「どうや。あんたはこれを
曜変とみとめるか」といわれてもどう応えたらよいか正直
困った。表面の光彩は曜変と云えなくもない。有り難う
御座いました。とお礼を述べ帰ろうと立ちかけると
「ここにわしが研究した全てを書いている資料がある
これをあんたにやる」それを戴く訳にはいきません。
「あんた目星はついとんか」いえ、なにも掴めていません。
「なぜ断る」
はい。私の求める曜変と長江さんのとは異なるからです。
とはいえこれは見栄かもしれません。根っからの
へそ曲がりと御笑いください。ではこれで失礼を。
立ちかけると「まてこれを観ろ」振り向くと彼は
背後のふすまの戸を開けた。それは長江さんの趣味で、
「あほぬかせ。わしの釉薬の一滴でもほしいとか何かを
知ろうとやって来た陶芸家と名乗るやつらの手みやげよ
証拠品。これみても断るかあんたは」はい。「あんたいう
男は」いいながらいきなり私の手を固く握り次のように
云われた。
「わしな日本の曜変夢みとる。それはあんたの求めている
美の様に思う」と。




2012. 01. 05  
窯場の周り年末から今朝まで気温がいくらか高めで
おもたい雪が降ったりやんだり、
今現在1mをかなり超えています。これを口実に
毎日喰うては寝飲んでは寝ての繰り返し。昨日あたり
さすがに酒もなくなりかけたところに庄原の久保さん
が廣島は竹原の酒置いて帰りまして、
そいつをやりながら次に登場願うのがこの人。
熱い人でした。どう彼を表現したらいいかな-とあれこれ
迷う。つむじかぜ。もいいかな熱いもいいかな。まあみんな
まとめれば長江惣吉になる。
ある日彼から電話がかかった
「あんた曜変やっとると東京の三越で聞いたんやが」
はあ、で何のご用件でしょうか。「ところで出来とんのか」
いえ未だ出来ていません「そうかわしの曜変観にこんか」
はあ
「明日こい時間あけといてやるから」がちゃんであった。
あつかましいという言葉は知っているがそれを
絵に描いたような人間おら初めてであった。


2012. 01. 02  
古名刀の実力
宮大工最後の頭領と云われた常岡さんの話
回廊の丸柱を部分修理するにあたって、自分がやった
仕事と過去の仕事が見比べることになる。
やはりそこは職人の誇り、劣る仕事をしたくない。
彼は鎌倉時代の鉄を集めて槍鉋を造らせた。此れ以後の刃物
だと明らかに仕事が劣る。気に入らなかったと話されている。

平安時代備中備前に正恒銘の太刀がある。なかでも有名なのが
灯籠切り。

かの太刀を帯びた武士がほろ酔い機嫌で我が家に向かっていると
目の前に化け物が現れた。腰のものを一振りして我が家で次の日
のあさまで眠っていると、表が騒がしい。起きて何事かと訪ねると
近くのお宮の灯籠が切られているとのこと。
思い当たる彼は腰のものを調べたが傷もない曲がっても居ない
まして刃こぼれひとつない。
この太刀は自分ごときが持つものではないと想い、かのお宮に
奉納した。この太刀は国宝として今も存在している。

さて南北朝以前と以後、何が変化したのか、このなぞを
入道に聞いてみたがわしゃしらんであった。
「うそつけ」とぼけおって。


2012. 01. 02  
総社市で穴窯を築いて試みた天目への挑戦でほぼ
自分が思い描くことが間違いではないとの確信は
得た。しかし、この場所で穴窯を焼くことは出来ない
問題は煙である。
やはり山奥に入らないとどうしようもない。縁あって
新庄に窯場を移したが今度は湧き水と雪になやまされ
想う温度に上がらない。もんもんとするなかで
数年が流れた。
ある日入道から☎がきた
「弥生の土器と一緒に鋼が出よった。取りにこんか」
行きました、確かに土器は弥生中期あたりのものが数点
ありました。
「全部はだめよ。あしたお上が見に来るんで少しは残し
ておかんとな」
ありがとさん。袋に詰め込んだ鋼はざっと100キロ
戴きました。
そしてしばらくして彼は病み連絡を受けお見舞いにいくと
「あんたとわしはトムとジェリ-だったな」
神明入道藤本昭安らかに御休みください。








2012. 01. 01  
あけましておめでとう御座います
本年も宜しく御願い致します
30日早朝に火入れ31日昼前終了。松原、黒崎、三島、太田達
が手伝って無事に焼き上がりました。
去年から本格的に始めた志のいよいよオロチ志乃が誕生します。
今年も身体と相談しながらゆっくり味わいある作品造りを目指します。
そうそう窯出し4日です興味あればお越し下さい
志乃のぐいのみさしあげます。ただし先着20名さまに
かぎらせていただきます。

プロフィール

杉原大路

Author:杉原大路
1939年尾道市で産まれる
15才より倉敷市にて羽島焼故小河原虎吉、後に
丹波焼市野弘之に師事
北京市、人文大学、香港の出版社等より栄誉賞を受ける
曜変、滴珠、兔毫天目茶碗再現の鑑定証書を
北京故宮美術館呂済民館長ほか五名の国家鑑定家より受ける
鬼太鼓座代表松田惺山とのコラボレ-ション
現代美術作家とのグル-プ展日本陶芸展毎日新聞主催等に出品
日墺美術展倉敷市とウイ-ン出品
ウイ-ン、北京市倉敷市岡山市その他の美術館ギャラリ-等
で個展開催

インフォメーション
印賀焼:大路土窯 おろち陶芸同好会
鳥取県日野郡日南町印賀1438-10(旧大宮幼稚園)%%http://maps.google.co.jp/maps?q=35.239285,133.274098+(%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E6%97%A5%E9%87%8E%E9%83%A1%E6%97%A5%E5%8D%97%E7%94%BA%E5%8D%B0%E8%B3%801438-10%EF%BC%88%E6%97%A7%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92%EF%BC%89)&hl=ja&ie=UTF8&z=14%%35.239285%%133.274098%%14
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