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2013.
10.
01
想えばおらがやきもんやでメシ喰うかなあ。何も解っていなかった
当時を振り返ってみると、そうそう、民芸教の信者が多かったように
想えます。そのことは、クラレの大原総一郎社長の影響が大きかった。
私が小河原虎吉の窯元にいた四年のあいだたびたび来られていた
ただ、虎吉はただの一度も民芸を語ったことがなかった。
しかし、一度だけおらのほうから民芸とは何かと聴いたことがあった
民芸か、ありゃあ方便よ。
わたしはこの虎吉の羽島焼に四年、丹波焼に二年。民芸の窯元で御世
話になったんだけれどなぜか民芸なるものに素直になれなかった。
師匠の虎吉もこの世を去って後に彼の想いとしてはおらが民芸の世界
に生きることを望んでいなかったようにおもえた。
一度だけ自分がこれから生きる方向を尋ねたことがあった。
むしあけ焼に岡本英山がいる。あの窯のあとをやれ
てんで英山をたずねた。
わしは心臓を患うとる。あんたを教える気力がない。
断られてしまった。
名のある窯元にはそれなりに職人がいた。そのひとたちと同じ路を
歩くんであればなんの問題もなかった。しかし何かがじぶんをそうさ
せない。虎吉もわしのあとをやれともいわんかった。
夢が無い、やきもんに夢が持てない。これだ、これをやりたいと思え
るものがない。
天目に出逢いこれにかけた夢が成ったとおもう。しかしこのゆめは想
像以上にきびしくつらい年月をかけてなお目的は遥かに遠い。
しかし自分としていくらか不安はあったものの上田氏に観てもらい
評価して頂いた。
満を持していたおらにしてみれば彼の去ったあとどうすべきか手の
打ちようがない。夢は終わった
当時を振り返ってみると、そうそう、民芸教の信者が多かったように
想えます。そのことは、クラレの大原総一郎社長の影響が大きかった。
私が小河原虎吉の窯元にいた四年のあいだたびたび来られていた
ただ、虎吉はただの一度も民芸を語ったことがなかった。
しかし、一度だけおらのほうから民芸とは何かと聴いたことがあった
民芸か、ありゃあ方便よ。
わたしはこの虎吉の羽島焼に四年、丹波焼に二年。民芸の窯元で御世
話になったんだけれどなぜか民芸なるものに素直になれなかった。
師匠の虎吉もこの世を去って後に彼の想いとしてはおらが民芸の世界
に生きることを望んでいなかったようにおもえた。
一度だけ自分がこれから生きる方向を尋ねたことがあった。
むしあけ焼に岡本英山がいる。あの窯のあとをやれ
てんで英山をたずねた。
わしは心臓を患うとる。あんたを教える気力がない。
断られてしまった。
名のある窯元にはそれなりに職人がいた。そのひとたちと同じ路を
歩くんであればなんの問題もなかった。しかし何かがじぶんをそうさ
せない。虎吉もわしのあとをやれともいわんかった。
夢が無い、やきもんに夢が持てない。これだ、これをやりたいと思え
るものがない。
天目に出逢いこれにかけた夢が成ったとおもう。しかしこのゆめは想
像以上にきびしくつらい年月をかけてなお目的は遥かに遠い。
しかし自分としていくらか不安はあったものの上田氏に観てもらい
評価して頂いた。
満を持していたおらにしてみれば彼の去ったあとどうすべきか手の
打ちようがない。夢は終わった
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