--. --. --  
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013. 12. 31  
辰の流れに流されて今は知る人もわずかとなってしまっているが
岡山県の西に位置する備中町の漆は品質の上で日本一との評価が
あった。
ところが二つの理由からわたしが原田さんと現地を尋ねた折には
丹下さんといわれる方が一人しかこの仕事をされていなかった。
高梁川の上流にあたるこの場所にダムが造られ其処に棲む人達が
立ち退きになった。
いまひとつ人工漆なんかがでまわりだして漆の需要が少なくなっ
たともいわれている。
しかし、それらのことより私が悲しく想ったのは生産者が漆の品
質を落としたという話だ。
漆の樹液をへらでかいて入れ物に貯める作業をするときにわずか
になたね油を使うがこれを故意にまぜて目方をごまかした。
品質が優れているということはこれに関わっている人達の功績だけ
ではない。
環境そのものが良質な漆を造っていたのである。農作物に関わる者
が朝夕天に祈る。祭りもそうだけどこのことは自らの傲慢を戒める
といった意味もあると私はおもっています。
数百年の営みも心ない人の行為で失うことがある。

焼きもんもそうだけれど漆器は解っているだけで数千年の歴史があ
る。ということは本当の意味でその伝統を受け継ぐということが
なまなかなことでない。ある意味でその家に産まれなければ出来な
いこともある。
原田さんは漆という太古から伝わる世界に金網を芯にした新しい乾
漆の技術でオブゼを創作してこられた。

彼の生家倉敷市玉島南浦の酒蔵美術館に作品を展示している。










スポンサーサイト
2013. 12. 26  
原田さんに登場してもらったんですこし漆の話をしましょう
彼は山男で毎年正月は大山で過ごしていました。
そんなんでいつしか山に誘われおらも端っこに加えてもらい、15
年位冬山に行ってました。
そのことよりもやはりア-チストとしての生き方を学んだと思う。
萩の吉賀大眉先生に認められて日展の世界では将来を嘱望されて
いた。
この吉賀先生は後におらも認めて頂き弟子になれと何度も誘って
頂いたがやがてこの世界で生きるということはおらのようなビン
ボウ人の生きれる世界でないことを悟りお断りした。
グル-プ現の名前で現代美術の展覧会を毎年岡山文化センタ-で開
催後に倉敷、ウイ-ン等で日欧展、倉敷の美術館を中心に彼とは数
多くの展覧会をしてきた。
この長い年月を振り返ってみて想うのは生様でんなあ
原田さんから学んだことは多い。しかし、だからといって彼と同じ
生様をしているかと言えばちがう。
でも芸術に生きる生様において仕事において尊敬している。

二十代前半頃初めて仕事場に入れてもらった時に座布団を出してく
れたんはいいんだけどこれ漆塗り。
仕事で漆のついた手でいらうんだからとうぜんそうなる。
ところがおら当時漆にめっぽう弱かった。結果は想像におまかせ。
先生らいねんあたり喜寿かなあ。



2013. 12. 21  
例年だと我が家は大掃除なしなんだけれど今年は若い人達が二度
やってくれました。有難う御座いましたおかげで気持ちよく新年
を迎える事が出来ます。
この窯場、炎のたまり場ひなたぼっこみたいな場所になって沢山
の人達がほっこりあたたまれるようにしたいね。
かねて久保さんとそんな話してたんだけどそれが現実となって。

今年は目ん玉の修理をせなあかんちゅんで以前お世話になった岡
大の教授だった松尾先生に相談しましたら
そちらには素晴らしい先生がおられるとのことで日野病院の玉井
先生におまかせしてめでたしめでたし。

ところでかの刀匠藤本入道のいった心眼がオラの場合まったくき
かんかったでんなあ。
手術前の窯の作品、特に力入れとった志の茶碗150点壊滅状態と
なりはてました。
心眼より肉眼が茶碗屋には大切としみじみ思いしらされました。

目ん玉の修理してよくよく視ればあれもだめこれもだめ。となり
窯も気に入らんっうんでぶっ壊して修理しました。
これもやっとこさ出来上がってほっ。それまっとったようにさっそ
く次の日は初雪。
え-もう師走。てな案配。この一年文字道理目の回る一年でした。

三日前から素焼用のチビ窯やりかけています。それめがけて昨日
朝から降るわふるわあっという間に40センチ。しばれてます。
チビ窯年内に完成出来るといいな。
きくさん達には内緒なんだけど表向き素焼かまなんだけど
ピザ、もパンもスモ-クも出来る..。一石五、六丁の窯なんです。






2013. 12. 18  
原田さんとは二度ウイ-ンを訪れている。
マリ-アントワネットがどうたらこうたらの舞踏場。当時美術館に
なっていた。一階の今にもワルツが聞こえてきそうな会場には整然
ぼろ靴が百あまり、となりにはさびて使い物にならない工具類等々
はるか向こうの片隅ににこれもぼろぼろののりもの。
二階は大部分油絵であつたと思う。
ヨ-ロッパ現代美術の作品群が納まっていた。
現代美術の作品の狭間に観える人間のそれは祈り、叫び、歓び、悲
しみ等が聴こえてくる。

わたくしごときがあれこれ言うのもはばかられますが。まあ茶碗
屋のたわごととして..。
オブゼ。新聞雑誌、テレビなんかでやたら登場する言葉。外国語の
意味が理解されないまま日本語同様な扱いをされる。
ア-チストでなければまあいいかげんでいいんかもしれないけど
物造りにかかわる人達には今少し注意してほしい言葉です。
わからんとわかろうとしない。は違います。偶然と必然もしかりで
す。道に転がっている石が面白い形だとオブゼ。ん-ん。
手任せ、筆任せとも違います。
高麗、李朝の焼き物を評する民芸愛好家のいう無作為の作為。
それは彼らが理想の職人像を作り上げて悦に入っているにすぎな
い。
物を造るという行為、それが人間であればまず想いありきです。
個々の想いが形になりその形には波動が存在します。

かの美術館で私が聴いた波動は労働者の手から仕事が取り上げら
れて機械化による大量生産を前に追いつめられていく職人たちの
うめき声でした。

音も形も人間を取り巻く自然に存在しています。美しいもの善き
ことを歓ぶ感性。それは人間に備わっています。波動のハ-モニ-
自然との。そこに想いがうまれ形が産まれます。おらが言う
オブゼとは。

バイブルにこうありますね
始めに言葉ありき。言葉は神とともにありき、この言葉に命在りき
..と。













2013. 12. 17  
桃山以後観るべき茶碗がない。は唐九郎語録のなかで強烈な印象を
与えている。
ちょっと先生言い過ぎなんとちがいますか。おらなんかとても..。
ただ、実は陶芸という言葉は先生が最初にいいだしたんです。
焼きもんや茶碗や。だけどここでいう茶碗とはメシを喰う器であ
る。あ、そう関西あたりだと唐津物で関東あたりでは瀬戸物なん
てのがありますなあ。
先生のいう桃山に無論光悦は入る。んそうおらその光悦作の黒楽
茶碗でお茶を頂いたが格別うまかったとの記憶は無い。ところが
茶人の間では光悦は別格の代物として今日に至っている。
解りやすい対象として荒川豊蔵と加藤唐九郎両者の志の茶碗を
前にして視るとそこに人間性とは別に違いが観えてくる。
豊蔵志のには器としての茶碗であり。唐九郎志のは表現としての
茶碗。オブゼ陶としての茶碗と私にはみえる。
んで、先生の言う視るべきものとはこのことではないかと思います
わたくしは倉敷在の漆芸家である原田さんから形は無限と言う言葉
を教えてもらいました。
表現、すなわちオブゼ。形も線も身の回りに満ちている。
ここに武満徹のいう空間に音はひしめいている。音を形に形を音に
この題名でわたし倉敷の美術館での個展で焼き物を空間に吊るしま
した。
天目、井戸、志野とつぎつぎやりながらいつしかお茶の様式のなか
で自分がたのしんでいるなと思うこのごろです。

2013. 12. 15  
河井先生と今一人濱田庄司先生も民芸の旗頭。
羽島焼の工房には当時応接に使われていた一部屋がありました
たしか掛け軸もかかっていたように思うんだけど、
あれはそう岡本淡雅さんのだったとおもう。その前にリ-チ作の
かなり大きい蓋物。と傍に湯のみがぽつり。
その湯のみインパクトがありその前を通るたびにいいな-と思っ
ていました。
あるひとらさんにあれ誰が造った湯のみか聴いてみたら濱田さん
だとのこと。さすがあ
たしか彼が50代のころあたりの逸話として風の便りに聴いたんだ
けど。
ロクロは手任せ、絵は筆任せ。なんてのがあります。
いま一つ。彼は手しゃくで皿に模様を流しかけするのを得意とし
いますが、あるときこれの実演を観た一人が
先生たった一分たらずで絵を描いて百万円とはいいショウバイで
すね。
此れに答えて先生曰く1分プラス40年。

身じかに接したお二人の想いで悪くはなかった。と言うより勉強
させていただいた。にもかかわらず私が民芸にアレルギ-を持った
のはこれの信者たちの鼻持ちならないインテリぶった物いいだった
ようにおもいます。
その対極ともいえる加藤唐九郎先生には銀座の上田画廊で一度きり
御逢いしたのみですがものすごい引力がおありでどんどん引っ張ら
れていきよります。


2013. 12. 12  
民衆的工芸品すなわち民芸といった言葉が手仕事の世界でさかん
に使われていた頃、昭和30年代といえば赤線が消えるとかで巷で
うわさが流れていました。
倉敷では民芸教の信者さんが多い所だった、とはあとになって知
ったんだけれど..。
とにかく手仕事と観れば全て民芸で片ずけられていました。
おらがやきもん習っていた羽島焼は民陶とかで知られていました
民芸館もありそこの館長なんかは民芸教の先生でしたなあ
敗戦後の殺伐とした空気のただようなかで民芸はかなりの人達に
受け入れられていったようです。
ただ自分がこの民芸になじめなかった。焼き物はきらいではなか
った。しかし自分の作品を民芸品あつかいされるのが気に入らなか
った。
羽島焼の虎さんのように方便と割り切って生きれたらいいんだけれ
どどうしても素直になれなかった。
特にきらいだったのは職人さん達に対する態度、ものいい、なんか
がいやでしたなあ。
彼らの好物は李朝の焼き物、家具類。これらを批評する口実には
なにかしら作者の能力を否定して彼らのお題目でかたずける。
久しぶりに蔵書の中の三島を取り上げた本をみて、久しぶりにかの
文言に触れましたが、やはりいやですなあ。
お高い所からの物言いには抵抗があります。
それと物造りする人達にはそれぞれが想いなり考えなりがあります
それを無作為の作為なんて訳のわからん文言でかたずける。
そんなんありません。ものを造るにはまずおもいがあってのこと。

わたし変な行きがかりから京都にお住まいであった河井寛次郎先生
をお尋ねしたことがありました。
ある先輩の仕事の手伝いしていたんだけどおらの仕事が気に入らん
らしくつぎつぎ手直しをしてゆく。
いささか嫌気がさしたんだけどだまっているうちにその作品が焼き
あがり河井先生に観ていただくとなった。
手直ししてない作品を手にして大層ほめていただいた。
彼の先輩民芸のにない手と言われている人、おら民芸嫌いな人間。
河井先生の感性とおらの感性似ているなと、不遜にもそのときおも
いました。
河井先生といえば民芸の旗頭。この先生に作品ほめて頂きん-ん
まっこと複雑な心境でしたはい。

2013. 12. 06  
十代前半から窯元でどろんこになってとにかく与えられた湯のみ
とか小皿とかを寸法どうりに造る。ま、五年くらいやっていれば
職人のたまごぐらいにはなっていたかなあ。
いまになってあれこれ理屈が言えるんだけれど、当時自分の将来
を深く考えてはいなかった。
まあ職人になるには理屈ぬきで与えられた仕事をこなす。型には
まることが大切とはいえる。
そんなある日古丹波の作品はいったいどのような窯で焼かれたん
かなあとぼんやり想っていると年配の職人さんが三本峠の穴䆴の
所在を教えてくれた。
さすがに500年位放置されていて外形はいたんでいたが中に入る
と当時をしのぶことは出来た。
この形式の竃は戦乱の時代。平安、鎌倉、室町そんな時代に築か
れ今は廃墟である。
この竃がすたれ登窯に移行して今日までをみてこれはと思う作品
はない。土を最大限美しく焼くには穴䆴しか無いのではないか。

十年くらい後再度此所を尋ねたが新しい道が出来ていてもはやそ
こには面影も無かった。
最初此所を尋ねたときにはわからなかったが二回目のおりには
はっきりと聞こえて来た。
型を破れ。
焼き物で生きるためには職人の技を学ぶことは大切である。其れ
は型である。しかしながら自分がこの型に生きることは出来ない
へその曲がったやつには..。
あの古丹波の美の世界は型を破ってこそやれる。

人の世のあわれ、物のあわれ。それを感じる感性。それを絵に描き
形にする。かたちは無限、
かって武満徹さんとお会いして伺った言葉
音は宇宙に満ちている。ないのではなくあるんだ。
ぼくが曲を作るんは自分の感性でどの音を選ぶかということなんで
すと。




2013. 12. 04  
錦織りなす秋の山の景色も忍び寄る寒さとともに色が褪せて師走
ともなれば雪が似合う風情です。
こういった景色を眺めていると物のあわれを感じます。
此所は出雲神話の舞台、日本という島の根っこであれば歴史は古
い。そこには人の営みがあり、栄枯盛衰がある。
もう随分前に奈良の赤肌焼に友人を訪ねた折にその窯場の傍が
平城京址でその場に立つと空気が違っていた。
古丹波と呼ばれる作品が焼かれた場所、三本峠には江戸時代より
古い窯があり、その中にたたずんで想いを巡らしていると声では
ない声、波動が聞こえてきた。
山の斜面になまずの寝床のような形に穴をあけてこれに作品を入
れて焼いていた。
1280度あたりの温度なんだけれどなぜか作品は1330度で焼いた
くらいに焼けている。
このことは窯自体の温度を上げるのに長い時間がかかっていた。
短時間で焼くのと時間をかけるのとでは内容が変わる。

約500年位以前に築いた窯とほぼ同じ窯を今回築いた。
それはかって三本峠の窯で聴いた声に答えてのものである。
穴䆴はその周囲の環境をもろに受け止める。
大雨が降れば竃の中は川になる。燃料にしても松割り木のみで
はない。竃の周りに自生する樹木は全て使う。
このような過酷な条件のなかで物造りをすることは大量生産とは
ちがう世界がある。
私がこの三本峠の穴䆴を訪ねたのは二十歳。職人修行中のときで
あった。













プロフィール

杉原大路

Author:杉原大路
1939年尾道市で産まれる
15才より倉敷市にて羽島焼故小河原虎吉、後に
丹波焼市野弘之に師事
北京市、人文大学、香港の出版社等より栄誉賞を受ける
曜変、滴珠、兔毫天目茶碗再現の鑑定証書を
北京故宮美術館呂済民館長ほか五名の国家鑑定家より受ける
鬼太鼓座代表松田惺山とのコラボレ-ション
現代美術作家とのグル-プ展日本陶芸展毎日新聞主催等に出品
日墺美術展倉敷市とウイ-ン出品
ウイ-ン、北京市倉敷市岡山市その他の美術館ギャラリ-等
で個展開催

インフォメーション
印賀焼:大路土窯 おろち陶芸同好会
鳥取県日野郡日南町印賀1438-10(旧大宮幼稚園)%%http://maps.google.co.jp/maps?q=35.239285,133.274098+(%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E6%97%A5%E9%87%8E%E9%83%A1%E6%97%A5%E5%8D%97%E7%94%BA%E5%8D%B0%E8%B3%801438-10%EF%BC%88%E6%97%A7%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92%EF%BC%89)&hl=ja&ie=UTF8&z=14%%35.239285%%133.274098%%14
メールフォーム

*上(別窓)のメールフォームが表示・動作しない場合はこちら

カレンダー
11 | 2013/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。